松本恭子によるコラムです。不定期掲載ですが思いを綴っています。

なぜ看護師だったのか?

私はなぜ…仕事を選ぶのに…よりにもよって看護だったのか????
今となってしまえば、あちらの世界まで持って行ってしまう≪封印≫ものだと思うのですが。
それでも敢えて、自分史の一コマとして残しておくとすれば、今の自分の生き方とあまり変わらない(その頃から既にその生き方の原型ができていた)ということなのだと思います。
中学3年生の、ちょうど親や社会に背を向けたくなる『反抗期』の只中。ノブちゃんときたら、私の高校入学についてあれこれ先回りして介入するものだから≪もうたくさん!!≫と、家を飛び出したくなった私は『看護婦の学校に行くために、どこかの病院に入ってしまおう』という、親からの逃避を企てました。
ノブちゃんは『学校』『看護婦』『手に職をつける』という私の『ウソ』にすっかり乗せられてしまい、家を出ることを渋々承知してくれました。その時の私ときたら≪看護婦≫の何たるかには全く関心がありませんでした。それより何か理由をつけて家を出たい。親から離れたい。自由になりたい。ということしか考えていませんでした。そして、当時の医師会の看護婦養成構想の≪住み込み・勉強しながら資格を取って、そこで働く≫というコースを選んだのでした。2年間准看護学科で勉強して准看護婦の資格を取ったら、その後の2年間はお世話になった病院診療所で働く。という≪お礼奉公≫だったのです。凄いでしょう!!今でこそ言わなくなったけれど、まだ10年くらい前まではその言葉は生きていたと聞きます。≪お礼奉公≫1)…
当然のことながら、親に縛られて窮屈な思いをしていた私が、親から逃げ出したように、その≪お礼奉公≫が終わったら、その診療所に縛られる窮屈がいやで辞めることになります。ただやはり私は(逃げ出すなんて沽券に関わるとばかりに)強かに『理由づけ』をして辞めました。その理由が『看護学校に進学する』だったのです。
看護学校の2年間は今でも青春そのものでした。夏休み・冬休み・春休み・・・・仕事をしているときには持てなかった自由な時間がたくさんありました。お礼奉公中の私に見えた同級生の夏休みや冬休みの青春時間を、この時に来て得られた嬉しさに、ただただアルバイトと山登りに費やしていました。看護は卒業すればいつでもできると、敢えて看護ではないアルバイト(土建屋さん・農家など)をしてお金をもらって、嬉々として北岳に入り・山歩きをして・山小屋で働きたいなどと嘯きながら・・20歳過ぎてからのささやかな青春を謳歌していました。
だいぶ本題からズレました。
ですから、なぜ、看護師だったのか???は 看護という仕事を選ぶことで親の立ち入れない世界に、逃げ込んでしまったのです。ただひたすら親や家・社会の私を縛る動きそのものから逃げる口実だったということなのです。
そしていま、そのことに(ノブちゃんに)詫びなければなりません。切っ掛けはどうあれ、今こうして看護師として自分の仕事ができるようになったのですから。決して一人で出来たことではないことぐらい、解っているからです。
あの日、志望校の入試に行かず一日中布団の中で死んだふりしていた私。そんな私を泣きながら説得していたノブちゃん。私は本当に親不孝者でした。でも、それほど親が敷いてくれたレールに乗りたくなかったのです。だから、自業自得とは言え私の高校勉学は『通信制・定時制』で一つ下の弟と同じ年に卒業という羽目になってしまったのです。
看護師になって自分の仕事として自信を持って話せるようになったのは、勿論ここまで一緒に働いてきた仲間たちの存在であり、私を支え・導いてくれた病院の諸先輩であり・そして親兄弟や親戚・今の家族の存在があって、周りのすべての人たちの存在があって・・・・今の看護師である私があるのだと・・・それが無くして今の私は存在しないとまで本気で思えるのです。
だから、本当に親不孝者でした。
そんな私が子育てで、いつもいつも二人の子供に向けていた目線があります。それは、子供のしたいこと・目指すことに干渉しない、子供の思いが行動に出るまでひたすら待ち続ける・・でした。いろいろな選択肢を示す時も、子供から求められない限り介入しませんでした。それはまさに、自分の子供のころの思いを再び繰り返したくないということだったのです。
だから、私の子供は看護師ではありません。
1)≪お礼奉公≫:看護学生時代2年間の学業期間の学費を病院が出してくれます。形としては奨学金制度です。その奨学金を受けていますから、受けた期間に相当する期間(2年間)お世話になった病院診療所で働くことが義務付けられていました。仮に働かないで辞めていった場合は奨学金を全額返還しなければなりませんでした。もちろん17歳くらいの若者にそんな高額は返せません。とても合理的な制度でした…

嗚呼!!訪問看護

訪問看護の世界は面白い。真にいろいろな意味で面白い。

訪問看護事業所には様々な設置母体があります。病院・診療所ならば真に心強いと思います。
在宅ネットワークというシステムとの連携で機能しているステーションもありますね。
そして、一般企業のしかも余所者がひっそりと始めたステーションも…(こう言っているからって卑屈になっているわけじゃありません。悪しからず)
このように種々様々な訪問看護ステーションが、狭いエリアにひしめき合っているのです。
私の働いている訪問看護ステーションは、種々様々の最たるものかもしれないですね。実績を重ねてゆくことでしかケアマネさんに認知してもらえない。そして、評価してもらうことでしか事業所を回していけない・・言い換えれば生き残る術がないのです。それは、新参者がこの世界で生き残っていくために・・強かな粘りと、周りの人との信頼関係と自分たちの技術・実績、事業所のポリシーと職員の看護観の存在、それしかありません。

開業医から浴びせかけられた辛辣な全否定発言にも≪私たちの訪問看護ステーションのポリシー≫をもって踏み留まれなかったら始めた意味がないのです。そう本気で思っています。
在宅医療・在宅療養にはいくつかあると思います。入院の必要がなくなって在宅医療を受けることになって…濃厚な24時間連携体制の整った訪問看護在宅医療を受ける人もいるでしょう。「24時間緊急時土日祭日の対応のないステーションはあり得ない。そんなステーションは止めてしまえ」などと仰る件の医者の全否定発言は…まぁ【こういう形の事業所もあるのだ】という理解が得られなかったんだと(大人の料簡で)受け止めることにしました。

そこで、私たちの訪問看護ステーションの利用者さんはどうなのかっていうと???
私たちのようなステーションでなければ出来ない訪問看護内容があると思っています。利用者のニーズに応えるためにあらゆる知恵を絞り、私たちの持てる限りの社会資源を駆使して活動しています。24時間緊急時加算はとれなくても、利用者の状況やニーズに応えることはできるはずです。勿論24時間管理しなければならない方への訪問はできませんが。だから、訪問看護ができないということにはなりません。小さなニーズに応えられるステーションを求める利用者だっているはずです。じっくりと相談できるところを望む人もいます。私たちの事業所のポリシーを敢えて言うなら、認知症の人の介護家族支援です。寝たきりのお年寄りを介護するご家族の支援なのです。ですから、そのような利用者のニーズの根源を知ったケアマネの社会資源の中に、私たちのステーションが存在しているかどうかという事になると思います。

さてさて…良い仕事っていったい誰のために、どのようにあるのでしょう????  
その評価者は、ケアマネでも医者でも看護師でもなく、利用者自身だと私は思っています。
まだまだ、山梨・甲府の在宅療養支援の次元は発展途上なのかも知れません。ただ、私たちは自分たちの事業所のポリシー・看護観を大切にするだけです。
夏至が過ぎて午後6時半過ぎになり心もち日の短さを感じる夕暮れ時に、件の医師とのやり取りの後の悶々とした思いを持て余した私は、駐車場の草っ原に佇んでいました。
家で寝たきりになって私たちの訪問を待っていてくれる利用者のことを考えながら、≪嗚呼!訪問看護…≫ 思わず漏らしてしまった独り言でした。

M45 Pleiades散開星団

今年も暑い夏が様々な足跡を残して走り去り、木々に山々に里に秋の色が濃くなってきました。秋の色は『白秋』白だと…。人生の秋に入って感慨深く秋を眺めるわたくしでありました。ただ、自然界の秋は実りであり色といったらやはり『赤・朱』でしょう。里山歩きをしていて柿の木に一点赤く灯された木守柿…その朱が鮮やかに主張しています。そしてカラスウリの朱。ブドウの蔓に残った葉っぱも赤「赤紫」…ですっかり秋に衣に替えた里山や野原を歩くとなぜか懐かしい。昼は温かい朱の秋にも漆黒の夜にきらめく星の界があって、その中にも思い出がいっぱい詰まっていたことを…

看護師になろうと診療所に入って働きながら看護学校に行って、仕事しながら勉強(何の??)して・・・。まだ16〰17歳の私は自分の未来を考える余裕はありませんでした。2年間ただひたすら勉強して、資格を取って…そうして 毎日・毎日仕事という時間に追いまくられていた気がします。
まだ看護学生だった17歳のこと…診療所を建て替える工事をしていた頃のことです。院長の住まいする母屋から、プレハブの病室棟に入院している患者さんたちの所に、《食事を運んだり、食器を片づけたり、患者さんへのお世話をしたり…》通っていました。通うっていったってほんの10メートルほどのアプローチでしたが。しかしその頃の「見習い看護師」の私たちには、こういった下働きが中心だったので、バタバタ忙しかったのです。ときに≪食事の内容が風に吹っ飛ばされそうな物だったり≫≪雨が降って傘をさしながら運んだり≫≪今の医療事情だったら到底考えられない原始的な≫行動・活動を仕事としていました。
晩秋のあるとき、屋外にある炊事場(トタン板張り:外も同然・吹きっ曝し)で患者さんたちの食事の後片付け、食器洗いをしていました。頃は11月か12月だったでしょうか?仮設の炊事場には北風が吹きつけてるなか、凍える指に息を吹きかけながら冷たい水で食器を洗い・・最後に熱湯を食器にかけて消毒・水切りをしていました。冷たい北風が吹いていたけれど空は晴れ渡っていて、冴え冴えとした夜空にはくっきりとたくさんの星が散らばっていました。
そのとき、松葉杖をついたその人が炊事場に来て「何してんの? 大変だねぇ」と声をかけてきました。
それから…いつとはなしに、食器を片づけたあとにその人と一緒に夜空を見ながら語り合うようになりました。他愛のない話やお互いの夢などを、星に語りかけるようにポツリポツリと話したのです。そして…思い出に残ったあの夜も、やはり同じように一緒に夜空を見上げていました。その人とわたくしとは並んで空を見上げながら ≪キレイな星だねぇ≫ 『うん』 ≪あの見るような見ないような感じで見ないと見えないぼんやりとした星が あの辺にあるだろ≫ とその人はわたくしの肩を抱くように添って言いました。 『ええっ??』 ≪見えた??≫ 『ああぁ 見えた』 ≪あれはプレアデスっていうんだよ≫ 『…??』 ≪プレイヤーデスって覚えるといいよ≫ 『プレイヤーデス?』 ≪そう≫   寒い風の中での他愛のない会話・なぜかその時だけは寒さを感じなかった……時と空気が静止した、ひとときでした。 
それから、その人は退院して遠くに行ってしまったけれど、しばらく遠距離友達になることができました。手紙をやり取りし思いの丈を打ち明け…遠くに居て逢えないからこそ大きくなってゆくその人の像が、私の胸の中一杯に膨らんでいきました。≪もしかしたらこれって 初恋??≫という『淡い』『甘酸っぱい』『青春のページ』…が開かれたのです。

晩秋の夜空にPleiadesが出るころはいつも…いつも甘酸っぱい初恋の思い出を思い出します。そして1969年アポロが月に降り立った時に終わりを告げた…淡い淡〰い思い出の形見になった星団なのです。
≪つづく≫

新聞デビューって

朝日新聞社≪山梨≫に今の認知症ケア職者を対象にした勉強会「エムステージ認知症勉強会」をアッピールしてみました。介護職者の方たちと一緒に認知症の人への関わり方を勉強したかったのです。それと認知症の人に関わっている人たちの関わりへの悩みを知って、一緒に考えたかったのです。それで、そのことを社会に知ってもらうにはどうしたらいいのかと考えた挙句・・・・・エムステージ代表の提案によって《プレスに訴える》ことになりました。その結果がこの記事になりました。取材して下さった朝日新聞社の佐藤様、本当に我儘で言いたい放題の私の思いをしっかりと受け止めてくださり、記事として世に出していただきました。

【山梨】 《連載・★会いたい!》 認知症ケア上級専門士・松本恭子さん

「知恵を出し合って一緒に考えたい」と勉強会について語る松本恭子さん=甲府市住吉5丁目

■ 介護の現場とともに ■
 「大きな声に反応しない」「話しかけるときは同じ目線で」「病気と知ることで、おのずと関わり方がみえてくる」。認知症にどう向き合うかとの悩みに、持ち得る知識と経験を一つずつ丁寧に伝えていく。
 昨年4月、日本認知症ケア学会が認定する「認知症ケア上級専門士」の資格を県内で初めて取得し、12月からヘルパーや介護福祉士などを集めて甲府市で隔月の勉強会を開いている。「現場の人にこそ正しい知識を身につけてほしい」と思ったからだ。
 毎回20~30人が集まり、「認知症とは何か」「介護拒否・暴力」「家族支援」といったテーマについて2時間ほど語り合う。個別性が強く答えがない問題だからこそ、テーマは参加者と決め、「失敗や模索を繰り返しながら、知恵を出し合って一緒に考えていきたい」と、ともに考える姿勢を崩さない。
 認知症の問題に直面したのは32歳のとき。看護師として一般病棟に勤めた後、自宅近くの精神科病院に転勤。病院や施設では風呂や食事などの業務を優先しがちになってしまい、認知症のお年寄りを中心としたケアの必要性を感じていた。
 45歳で甲府看護専門学校の専任教員となり、精神科と老年期の問題について約10年間教えた。より介護現場に近い人たちに理解を深めてもらうため、2009年、訪問看護の道に進み、日々の仕事の傍ら、認知症ケア上級専門士として勉強会や講演会を積極的にこなす。
 会では、介護に携わる家族への支援の重要性も訴える。8年前に他界した母は認知症を患い、家族とともに支えた介護生活は14年を数えた。当時は周囲に母の病気を打ち明けることができず、振り返るといまでも悔しさがこみ上げる。家族として、職業として、抱える悩みは違うと知った。
 認知症の理解が進み、介護の形は少しずつ変化している。勉強会でも、回数を重ねるごとに活発な議論が生まれてきた。認知症は人間の原点のようなもの。一見理解できないような感情や行動でも、表現の一つととらえ、現象だけでなく原因を見つめる。「100人いれば100通りの対応の仕方があるからこそ、その人の立場に立って想像することが大切なんです」
勉強会(無料)の問い合わせは、訪問看護ステーション「エムステージ」(055・287・7764)へ。(佐藤美鈴)




認知症ケアポート『Rapport』の代表である認知症ケア上級専門士:松本恭子のOfficialWebです。認知症のこと、家族ケアのこと、定例勉強会のこと、松本個人の呟きなどお届けします。




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